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酒蔵のある風景

流通事情(昭和)

軍用酒が出るようになってからは金沢などの地方でも「機械瓶」が使われるようになった。しかし、一般家庭用は依然として「徳利」であった。

昭和初期の福光屋。赤玉ポートーワインやビールも取り扱っていたようである。また、切手窓と呼ばれる場所で切手や印紙も売っていた。店の左手には山村から出てきた人たちのための馬つなぎがあった。

配達の途中、兼六園で。この自転車で、カラの徳利ならば40個あまりも、荷台やハンドルに結びつけて走ったという。

市内の徳利集め。竹籠に入りきらなくなると、引き棒にぶらさげて回った。店員とは別にこの仕事専門の人を雇っており、月に1、2度回収したという。配達のときにもカラ徳利は持ち帰るが、それでも残ったり、得意先以外で「福光屋」の名入りの徳利が放置されたままになっていることがあったからである。

昭和15、6年の頃、配達に使われたトラック。昭和7年に購入した三輪オートバイが老朽化したために、このトラックにかえた。菰樽を配達するのは、正月の料亭、飲食店ぐらいだったから、これは写真を撮るためにカラのものを積んだと思われる。

店先にテーブルを出して記念撮影。特別な記念ということではなくても、近所の写真館に来てもらい、よく写真を撮ったものだという。

総勢40数人の蔵人たち。尾口村瀬戸を中心にその周辺の地区から、あるいは犀川や浅野川上流の村から集まり、冬季の半年間を福光屋の蔵で酒造りに携わった。

仕事を終えてくつろぐ蔵人たち。店の奥の囲炉裏のある部屋で酒を酌み交わすうちに、記念写真を撮ろうということになって写真屋を呼んだのだという。四斗樽の前に写っている小さな木樽は通常、郡部の配達によく使われたものである。

軍用酒の積み出し。一回に二斗樽で200から300をトラックで金沢駅へ運び、そこから大阪などへ送られた。樽の場合と機械瓶を詰めた木箱の場合があった。左端、松太郎の横に立つのは、軍からの立会人。