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契約栽培米

契約栽培米

福光屋では生産農家と契約栽培することによって、高品質の酒造好適米を安定確保しています。これは昭和35年に兵庫県中町と「山田錦」の栽培契約を結んだのが最初で、現在では長野県木島平と「金紋錦」、兵庫県出石と「フクノハナ」、富山県福光と「五百万石」をそれぞれ契約栽培しています。酒造好適米は栽培地が限られ、育成が難しいだけでなく、収穫量も少ないのが現状です。契約栽培の利点は、安定供給のみならず、農家と土づくりから共に研究して、より品質のいい酒米を収穫できることにあります。また、毎年の気候状況によって変化する米の性質も事前に予測、把握できたり、酒米の個性を見極めることによって、独自の酒造好適米ともいえるような特性改善も可能です。そして何よりもつくり手の顔が見えるということが、お互いの励みとなり意欲となり、最も大きな利点であるといえます。

マップ
山田錦

山田錦

坂本との出会い

昭和30年代、酒の供給は需要に追いつけず、日本酒は造ればすぐに売れてしまう時代が続いていた。洒の販売価格は全国一律に決められ、あえて値段の高い米を使う蔵元はほとんど無くなり、山田錦が売れないという山田錦受難の時代であった。中でも兵庫県の中町坂本のように生産量の少ない村では、立派な米を作りながら、量がまとまらないというだけの理由で、値段は買いたたかれ、量も捌ききれないという悲哀を味わっていた。この厳しい状態を打破するため、坂本の人達は自分たちの作った山田錦を正当に評価してくれる蔵元を求め、全国の酒蔵を訪ね歩き、たどりついたのが金沢の福光屋であった。そのころの福光屋は、酒販店が現金を持って買いにこられても、希望の量をお渡しでさない程の状況であったが、品質へのこだわりは強く、良い洒米を探し求めていた。品質ではどこにも負けない山田錦を作っているという村の人達の熱意と、もっと良い酒を造りたいという福光屋の思いが一致し、現在までの長いお付き合いが始まった。昭和35年のことである。

村米制度

戦後、日本の米は食糧管理法(食管法)によって厳しく管理されてきた。検査、集荷、販売は全て食糧庁の一括の管理下にあり、生産者である農家と需要家の酒屋が直接取引することは厳しく禁じられ、生産者→農協→経済連→酒屋の流れは絶対に崩せない仕組みになっており、坂本との取引にもこの制度は大きな壁となった。しかし当時、たまたま山田錦が過剰にあったことが幸いし、関係者の好意と大変な努力で、形の上ではルールに則りながら、実際には坂本の山田錦の全てが福光屋へ納品される例外が黙認された。これは、灘の酒蔵と播州の農家との間で、明治24,5年頃から戦前まで続き、米の品質改善に大きな貢献を果たしたといわれる「村米制度」と同じ発想によるものである。

菊づくりより難しい

契約栽培が始まって以来毎年、社長は山田錦の刈り取りの時期に必ず坂本を訪れ、たわわに実った田圃の前で米のでき具合を確かめ、集まった全ての農家の人たちの自慢話や苦労話に耳を傾ける。そんな中で、「土にリン酸が少ない」という話が出ると、さっそく北海道からニシンなどの魚肥を取り寄せ、田に入れるなど、少しでも良くなると思われる提案はほとんど全て試し、実行に移してきた。 農家の人達はごつい手で稲穂を撫で、「ふくみっちゃはんの山田錦は、菊づくりよりえらいで(福光屋さんの山田錦をつくるのは、菊をつくるより難しいですよ)」と言いながらもその顔は自信に満ち、輝いている。

金紋錦

金紋錦

長野県下高井郡木島平村は『自然劇場きじま平』のキャッチフレーズのとおり、標高500メートル、自然が一杯の美しい村だ。
ブナの林から流れ出る清冽で豊かな水、澄んだ空気、昼と夜の温度差が大きいなど、米作りの環境に恵まれ、農薬を使わない田圃には、秋になるとイナゴがぴょんぴょんと飛び跳ねている。金紋錦はこの地にだけ栽培される貴重な米である。
昭和60年頃、『黒帯』の掛米として重要な長野県木島平村の『金紋錦』に栽培が続けられないとの話が持ち込まれた。長年この米を使っていた幻の酒で有名であった新潟の蔵元が地元産の米に切り換えたため需要が減り、農家も生産意欲を無くしたとのこと。山田錦との組合せと熟成によって絶妙の旨みを発揮する金紋錦を残すためにも、契約栽培化は切り札となり、昭和63年、木島平でしか栽培されていない金紋錦は全量 福光屋との契約栽培となった。
将来性に不安を抱きながら細々と作られていた頃の金紋錦は、心白の少ない千粒重24g程の見かけも良く無い米であったが、契約栽培にしてから十数年後の今は心白の綺麗な千粒重26g台の見事な米に蘇った。

フクノハナ

フクノハナ

昭和60年頃福光屋ではレギュラー酒の麹米として大切に使っていた兵庫県の『フクノハナ』に対して、需要がほとんど無いので栽培を止めるとの話が持ち上がった。
フクノハナは水を吸い過ぎ、蒸米が柔らかくなるので麹になり難い、というのが大方のいい分であった。しかし福光屋ではそのことは既に分かっており、独自に開発した調質装置を使って白米に水分を取り戻し、水を吸い過ぎないようにすることに成功し、立派な麹を作っていた。
栽培量の少ないフクノハナを継続的に確保するには契約栽培以外に方法は無いとの経済連の見解から、昭和63年、熱心に取組みたいと名乗りのあった出石(いずし)との契約が成立し、以後この町で作られるフクノハナは全て福光屋へ納められている。
兵庫県出石郡出石町は江戸時代58,000石の城下町として栄えた町である。城郭、辰鼓櫓、家老屋敷、名僧沢庵和尚が再興した宗鏡寺をはじめ30余りの寺院や、碁盤の目状の町割に残る落ち着いたたたずまいから、『但馬の小京都』と呼ばれる。
三方を緑の山で囲まれたなだらかな農地は、肥沃な土と出石川の清流に恵まれた優秀な酒米の産地だ。