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契約栽培米
●坂本との出会い
昭和30年代、酒の供給は需要に追いつけず、日本酒は造ればすぐに売れてしまう時代が続いていた。洒の販売価格は全国一律に決められ、あえて値段の高い米を使う蔵元はほとんど無くなり、山田錦が売れないという山田錦受難の時代であった。
中でも兵庫県の中町坂本のように生産量の少ない村では、立派な米を作りながら、量
がまとまらないというだけの理由で、値段は買いたたかれ、量も捌ききれないという悲哀を味わっていた。この厳しい状態を打破するため、坂本の人達は自分たちの作った山田錦を正当に評価してくれる蔵元を求め、全国の酒蔵を訪ね歩き、たどりついたのが金沢の福光屋であった。そのころの福光屋は、酒販店が現金を持って買いにこられても、希望の量
をお渡しでさない程の状況であったが、品質へのこだわりは強く、良い洒米を探し求めていた。
品質ではどこにも負けない山田錦を作っているという村の人達の熱意と、もっと良い酒を造りたいという福光屋の思いが一致し、現在までの長いお付き合いが始まった。昭和35年のことである。
●村米制度
戦後、日本の米は食糧管理法(食管法)によって厳しく管理されてきた。検査、集荷、販売は全て食糧庁の一括の管理下にあり、生産者である農家と需要家の酒屋が直接取引することは厳しく禁じられ、生産者→農協→経済連→酒屋の流れは絶対に崩せない仕組みになっており、坂本との取引にもこの制度は大さな壁となった。
しかし当時、たまたま山田錦が過剰にあったことが幸いし、関係者の好意と大変な努力で、形の上ではルールに則りながら、実際には坂本の山田錦の全てが福光屋へ納品される例外が黙認された。これは、灘の酒蔵と播州の農家との間で、明治24,5年頃から戦前まで続き、米の品質改善に大さな貢献を果
たしたといわれる「村米制度」と同じ発想によるものである。
●菊づくりより難しい
契約栽培が始まって以来毎年、社長は山田錦の刈り取りの時期に必ず坂本を訪れ、たわわに実った田圃の前で米のでき具合を確かめ、集まった全ての農家の人たちの自慢話や苦労話に耳を傾ける。そんな中で、「土にリン酸が少ない」という話が出ると、さっそく北海道からニシンなどの魚肥を取り寄せ、田に入れるなど、少しでも良くなると思われる提案はほとんど全て試し、実行に移してきた。
農家の人達はごつい手で稲穂を撫で、「ふくみっちゃはんの山田錦は、菊づくりよりえらいで(福光屋さんの山田錦をつくるのは、菊をつくるより難しいですよ)」と言いながらもその顔は自信に満ち、輝いている。
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